September 5, Tuesday -  Santa Maria degli Angeli, Domus Pacis, Sala Perfetta Letizia
Prayer at the Root of Peace

Shoten Minegishi
Soto Zen Buddhism, Japan


(Ⅰ)はじめに

1)私が属しております大乗仏教の伝統には、他者の幸せのために尽くすことにおいて自分自身も救われるという信仰があります。

2)私は禅の修行道場で、老師、お師匠様の生き様を見て、僧というのはお釈迦様に憧れ、お釈迦様のように生きたいと願い、誓いを立ててそのように生きようと努力する人のことを言うのだと体得いたしました。

3)ですから僧侶たるもの、お釈迦様が願われた、他者の幸せのために尽くすことをその生きる原点に持つべきだと言いたいのです。

4)しかし、言葉でそういうのはたやすいのですが、実行という段階になるとむずかしい側面がたくさん出てくるというのもまた事実であります。

(2)祈るということ以前に

5)1986年以来、私たちは何度も、このような舞台で、平和を願い求めてきました。

6)しかし、事態が一向に改善されない現実を私たちはどう受け止めたらよいのでしょうか。

7)異なった宗教、宗派に属する人たちの間で起こるさまざまな紛争が、宗教そのものに対する懐疑と深刻な不安を、現在、私たちに与えています。

8)そこで一人の宗教者として、私の反省をこれから述べてみたいと思います。

9)なぜなら、祈りの前提となるのは反省だからであります。

10)反省という土台のない祈りは、祈りとしての力を持たないと私は考えます。

11)ですからまず、私は自分自身を省みることからはじめたいのです。

12)私はスピーチにおいて美しい言葉を掲げ、それでもって満足してしまうという、言葉に隠れて現実から逃げてしまう宗教者に陥ってしまったことはなかったろうか。

13)私は自分の宗教、宗派、伝統、自分がよって立つ基盤の宣伝をこの20年間の一連の「平和の祈り」のなかで行ったことはなかったろうか?

14)私は自分の所属する集団の枠のなかに閉じこもり、自分たちと信仰を異にする人たち、すなわち価値観を異にする人たちを理解しようと努力することが十分にあったろうか?

15)私は他の宗教、伝統を理解しようと努力したとしても、自分たちの宣教の手助けになればという立場からのアプローチがなかったろうか?

16)私は宗教というものの持つ排他性を十分に意識していたであろうか?

(Ⅲ)宗教を制約されたものとしないために

17)おおよそ求心力を持つ組織には異質なものを排除しようとする排他性が働きます。

18)宗教集団だからといって例外となることはありません。

19)むしろ、宗教教団というのは、その教えが一番正しいと思っている人たちの集まりだから、他の集団に対して距離をおくことが前提になっています。

20)ですから一概に言うことはできないかもしれませんが、多くの、宗教に起因するとされる紛争の根底に、求心力のある宗教組織自体が持つ異質なものを排除しようとする構造が影響している可能性があります。

21)こうしたことを私たち宗教者は自ら問い、自分たちとは異質な人たち、異質な宗教、異質な文化と関わっていかなくてはならないと私は考えます。

22)くわえて、世界は一つではない、単一ではないという自覚が必要だと思います。

23)世界にはさまざまな文化、さまざまな価値観が混交しています。

24)私たちはそうした数ある文化、価値観、伝統のなかの一つの伝統に属している存在に過ぎないという立場に立つ方が、相手とつながる架け橋を保ちやすいと思います。

25)なぜなら、その属している一つの伝統の立場から、世界全体を統合しようとしても現今では無理があるからであります。

26)一つの立場から世界全体を統合しようとするのではなく、バラバラな世界をバラバラなままで認めるという認識、パラダイムを持ってもいいはずであります。

27)私は仏教徒、皆さんはイスラム教徒あるいはキリスト教徒、またはユダヤ教徒ということで空気を吸い、水を飲むことにおいて、つまり、生きるということにおいて差し支えないはずであります。

28)確認し、出発点としなければならない原点は、私たちが同じ地球という星に住み、同じ酸素を吸い、体のなかには同じ赤い血が流れているという事実なのです。

29)私たちは殴られれば痛いし、食べるものがなければひもじい人間同士なのです。

30)20年前、この祈りの場において、全員が昼食を抜くことにしました。

31)そして、困窮にある人たちと心を同じくするということがありました。

32)このことを、被造物という観点から、少し考えてみたいと思います。

33)もちろん、仏教には被造物や創造主という概念はありません。ヨーロッパの文化、宗教、物の考え方に合わせて、お話していることをご理解いただきたいと思います。

34)ひもじさから心を一つにすることができるということは、私たちが生物という基盤において一つであるからであります。

35)もう少し突き詰めて言えば、私たちは被造物として一つと言うことができると思います。

36)さらに言えば、何で被造物同士が、神の似姿としての人間同士が争わねばならないのか、ということであります。

37)被造物同士の争いは、創造主に対する反乱だと言うことができるでしょう。

38)私たちが地球という大きな共通の基盤の上に、お互いに、支え、支えられあっている存在であるということ以上に、宗教的に、崇高な存在であるということを思い出していただきたいのです。

39)そして、私たちはその崇高な存在として祈るということができます。

(Ⅳ)出会うということ

40)私たちにここで与えられているテーマは「平和の源泉としての祈り」であります。

41)「平和の源泉」は「和解」にあると私は思います。

42)歴史的なさまざまな出来事を振り返れば、人間の歴史とは、誤解、争論、暴力の連続であるとも言えます。

43)そうした間違いの歴史を超えて、「和解する」ために私たちが学ばなければならないことは、そう多くはないのです。

44)「和解する」ということは、相手を「許し」、「認めあう」ということであります。

45)ですから「和解する」という行為は皆様お気づきの通り、宗教的な行為なのであります。

46)まず、和解するためには、お互いに出会い、知り合うということが必要です。

47)パーソナルな出会いがなくてはお互いを知ることができませんし、相手を知らなければ歩み寄るということも不可能だからであります。

48)相手を知るということは相手を認めるということであります。

49)和解のために、憎しみが憎しみを、暴力が暴力の連鎖を生む社会を乗り越えていく出会いの道を私たちは探さなければいけないと思います。

50)そして、その道行の根底に、祈るという行為が必要だと私は受け止めています。

(Ⅴ)祈るということ

51)2004年8月1日、日本の大きな新聞に掲載されたエピソードをご紹介いたします。高橋和(たかはし・やまと)という27歳の女流将棋棋士と9歳の少年の文通の話を高橋氏のご主人が紹介した一文です。

52)「きっかけは、少年の父親が病気に苦しむ我が子の気を少しでも紛らわせるために、妻のホームページにメールを送ったことだった。子どもが高橋先生のフアンなので、サインをくれないか、というものである。妻はサインをするのはかまわないけれど、父親ではなくて本人からの手紙がほしいと返事を出した。それから間もなくして、少年から我が家に手紙が届いたのだった。」

53)「そして、お父さんから高橋先生も子どものときに交通事故で大変だったと聞きました。まだ痛いですか。痛くならないようにお祈りしています。という言葉で手紙は締めくくられていた。私の妻は四歳のとき、交通事故に遭い、左足を截断する寸前の重傷を負った。小学生時代は何度も手術を繰り返してきた。そのことを父親から教えられて、足が痛くならないようにと病床でお祈りをしてくれているのだ。」「身の回りで起こったことを几帳面な字で一生懸命に書き添えて、そして手紙の最後は必ず、高橋先生の足が痛くならないようにお祈りしています、と締めくくられていた。」

54)「そのころに父親からもらった手紙で、どうやら少年の病が不治かそれに近いものであることを知った。医者からは覚悟をしておいてくれと言われているとあった。生まれたときには、すでに何日生きられるかわからないという状況だったらしい。手紙のなかに出てくる抗ガン剤、副作用という言葉から少年の抱えている病状の深刻さを類推するほかなかった。それでも少年は健気に生き延びた。十歳になった喜びを伸び伸びと素直に手紙につづってくれた。会いに行こうかとこちらから提案したこともあった。しかし、あまり興奮させると体調に響くかもしれないという医者の判断もあって様子を見ていた。」

55)「ある日届いた少年からの手紙は、明らかにそれまでのものとは違っていた。一文字一文字が大きく、乱れていて見るからにやっとの事で書いているという雰囲気なのである。それからすぐにきた父親からのメールは、少年がついに最も恐れていた状態に入ってしまったことが告げられていた。ガン性悪液質という言葉が私たちの心を乱した。痛いです。苦しいです。と書かれてある言葉に何と答えればいいのだろう。少年は末期癌の苦しみのなかで、必死に手紙を認めているのである。お手紙うれしかったです。いつまでもいつまでもお友達でいて下さい。とまるで泣き叫ぶような字で書かれてある。そして最後にはまたひときわ大きな字で、高橋先生の足が痛くならないようにお祈りしています、と締めくくられていた。妻も私も泣いた。少年のおかれている苦しい状況に、そしてそんな激しい痛みや苦しみのなかでさえ、自分のことよりも人の足の痛みに思いやれる少年の優しい心に。何もしてやれない悔しさもあったが、少年が懸命の思いで与えてくれるものの大きさに、胸が締めつけられる思いがした。」

56)「最後の手紙を書いた数日後に少年は亡くなった。あまりにもかわいそうに思った神様が、息子に最後の最後に恋をさせてやってくれたのだと思います。と父親から妻宛に手紙が届いた。そして、病気の苦しさをどれくらい紛らわせてくれたことか、と感謝の気持ちがつづられてあった。少年からはじめて手紙をもらってからわずか三ヶ月。少年は亡くなる前日まで、妻の足が痛くなることのないように祈っていてくれたそうである。少年がくれた純白のテデイベアは、リビングの出窓に座り、今も私たちの生活を静かに見守り続けている。」

57)この一文の題は「君のためにできること」でありました。私たちはどんな状況におかれていても、人のために、他のために何かができるということを教えてくれています。

58)そして、学んだことは、祈るということが相手、他者への献身であるということです。

59)祈るということは、相手、他者の幸せという願いを不断に現実化していく生き方なのであります。

60)つまり、祈るということは、一人一人の人間の幸せがそこから生まれてくる「平和」の現実化であり、「平和」ということへの献身なのであります。

61)他者のために何を祈ることができるか、他者のために、どう祈ることができるか、そこに私たちの平和への道行が問われてくると私は思います。

62)冒頭、ご紹介申し上げましたように、大乗仏教には他者のために尽くすことにおいて自分自身が救われるという信仰があります。

63)そうした心を表した詩人、宮沢賢治のメッセージを最後に申し添え、私のスピーチの締めくくりにしたいと思います。

64)「世界全体が幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」

 

65)ご静聴どうもありがとうございました。

 

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